【青森県近代文学の名品】

Vol.76   棟方志功 「哀父頌『酸渋の柵(噛酸の柵)』」

 青森県近代文学館は、津川武一(1910〜88)旧蔵になる棟方志功(1903〜1975)の色彩木版画「哀父頌」全4点を所蔵している。ここに紹介する「酸渋(すしぶ)の柵」はその中の一点で、「私小説の神様」と言われた郷土の作家、葛西善蔵(1887〜1928)の小説「湖畔手記」(1924年)に記されている短歌「秋ぐみの紅きをかめば酸くしぶくタネあるもかなしおせいもかなし」からインスピレーションを得て版画化された。カラフルな作品であるが、色彩は紙裏から顔料をにじませるという志功特有のやり方で施されている。

 短歌に詠われた「おせい」は、当時本郷で一緒に暮らしていた女性である。善蔵は生活困窮のため、妻子を浪岡の妻の実家に預けて、小説と取り組んでいたが、身重のおせいとの暮らしもうまくいかず、突然、日光湯元温泉への逃避行を決行、この「湖畔手記」を書いた。「最初から妻にあてて、おせいとのいきさつの一切を謝罪的な気持で書くつもり」であった。画面左の人物は葛西善蔵で、津川の日記によれば、生前葛西をよく知る人は、「一番達者なときの、一番いいときの善蔵にそっくりである」と証言している。

 昭和30年末、津川武一が中心となって、葛西善蔵文学顕彰会が設立された。陸奥新報の記事でこのことを知った「善蔵好きの」志功は、翌31年春、荻窪の自宅から陸奥新報宛に入会希望の手紙を自ら書いている。同年7月、顕彰会の手により善蔵が尋常小学校時代を過ごした碇ヶ関に文学碑が建立されたが、津川は除幕式のリーフレットの表紙を志功に依頼したのである。これが津川と志功の最初の出会いである。1962(昭和37)年の「哀父頌」も津川の依頼であった。志功の津川に宛てた葉書から経緯を追ってみる。版画関係部分の抜粋であるが、7月5日付で「葛西善蔵先生の四つの歌をすぐ記してお知らせください。なるべく早く板画にしてお目にかけませう」。8月5日付「葛西善蔵氏の歌四首を板画に彫り了へました。この三、四日中にお届送りいたします」。8月8日付「この二三日中に、新作葛西板畫四柵をお送りいたします」。8月8日はまさに「哀父頌」4点にサインを入れた日付である。これら津川宛の葉書で、4点の「哀父頌」が、わずか1ヶ月で仕上げられたことが分る。シリーズ名は、善蔵の処女作「哀しき父」(1912年)から志功が取ったものである。

(館長・黒岩恭介)
(平成20年9月25日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)

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棟方志功 「哀父頌『酸渋の柵(噛酸の柵)』」

志功の津川武一宛葉書(昭和37年8月8日)

「弘前文学」及び東奥日報いただき受けました。葛西善蔵好きのわたくしには、ありがたきことです。前には、葛西先生の短冊と聯切りの一行を持ってゐたのでしたが、その他「不良児?の短篇集への署名入りも戦さでみんな灰にしてしまいました。今短冊なりと欲しくと思ってゐますが、ナカナカ今のところありそうもありません。 福士、秋田、鳴海三氏の書も色紙も持ってゐます。この二三日中に、新作葛西板畫四柵をお送りいたします。 秋、九月二十八日には、青森の唯一の母校(小学校)に招ばれて帰ります。 弟お恩になってゐます。拝礼