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【青森県近代文学の名品】

Vol.63  佐藤紅緑・福井新聞社時代の書簡

  弘前市出身の佐藤紅緑(1874〜1949、本名・洽六)は、1927(昭和2)年5月「少年倶楽部」に「あゝ玉杯に花うけて」の連載を開始。以後二十余編の少年少女小説を書き全国の少年読者を熱狂させたことは周知のことである。しかし、紅緑の文学活動の出発が俳句であり、その時期に新聞社を転々としていたことはあまり知られていない。

  1894(明治27)年、紅緑は陸羯南の日本新聞社に入社、正岡子規と出会い俳句を学ぶ。紅緑という号は子規が命名したものである。その後、郷里の東奥日報社、東北日報社(現・河北新報社)、富山日報社、帰郷して陸羽新報社をおこし、報知新聞社、福井新聞社、万朝報社、大阪関西日報社と渡り歩いた。二十代から三十代はじめにかけての時期である。

 今回紹介するのは、福井新聞社の佐藤洽六が毎日新聞社員・吉川正毅に宛てた書簡(明治36年2月17日付)である。「ドウダイ一つ福井で敏腕を振ふ気が無いか当地ハ僕の新聞ハ一番に隆盛他ハゴロツキばかりで月給も拂ハない始末ソレデ僕のは三田村のであるから萬事都合がよく凡て一切の事ハ僕の任意である富山とハチガヒ三田村と僕とで何でもキメルノである」
  書中、紅緑は病気療養中の吉川を気遣い、福井に移って療養し快癒ののち福井新聞社での勤務を勧めている。その際、一切を吉川に譲り渡すことも書き添えている。紅緑29歳、福井新聞社での動向や人柄を伝える貴重な一通である。

 紅緑は、翌年万朝報社、その翌年大阪関西日報社へと移るが、新聞社を渡り歩く生活はそこで区切りを迎える。1906(明治39)年、初めての脚本「侠艶録(きょうえんろく)」が大成功を収め、「中央公論」に発表した小説「あん火」が文壇から注目され、紅緑は劇作・小説の人気作家となっていく。「あゝ玉杯に花うけて」の連載開始は、この書簡から24年後、53歳になってからのことである。

(室長・櫛引洋一)

(平成20年6月19日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)