| Vol.59 鳥谷部春汀 最晩年の絵葉書
1908(明治41)年10月、大町桂月(1869〜1925、高知県出身)は総合雑誌「太陽」に「奥羽一周記」を掲載し、十和田湖を天下有数の景勝地として世に紹介した。その桂月を初めて十和田湖に案内したのが、五戸町出身で、明治期、月旦(げったん、人物評論)の第一人者として全国に名を馳せた鳥谷部春汀(とやべ・しゅんてい、1865〜1908、本名銑太郎)である。
桂月を十和田湖に招くに先立ち、春汀は日光を訪れ妻のこと宛に一枚の絵葉書を出している。消印は明治41年8月2日、華厳の滝の絵葉書で、裏には「只今華厳ノ滝ヲ見、中禅寺湖ヲ眺ム 正午茲(ここ)ヲ立チ午后四時三十分日光発ノ汽車ニテ帰京ス。春汀」と書かれている。ただの平凡な絵葉書のようだが、この日光行について、桂月の「奥羽一周記」に次のように記されている。
「鳥谷部春汀、一日、来たりて我を訪(と)ふ。日光に遊びたりといふ。珍らしや、君の如き旅行嫌ひの人が日光に遊ぶとは、さても如何(いかが)なる風の吹きまはしとぞ云へば、日光を見て、結構を説きたくもあれど、別に理由あり。我れこの度、久しぶりに帰省し、母を迎へ来らむとす。そのついでに、君を我が郷里の十和田湖に案内したしと思ふ。われ、少時、しばしば遊びて、以為(おも)へらく天下の絶景也(なり)。されど、他の勝地を知らざれば、これ或は独合点(ひとりがてん)なるかも知れず。依(よつ)て比較して見むとて、世に名高き日光に遊び、華厳瀑(ばく)や中禅寺湖を見たるが、我(わが)十和田湖は、之にまさるとも劣らざることを確信しぬ。請ふ、来り看よといふ。」十和田湖が「天下の絶景」だという自分の判断が「独合点」か否かを確認するために、旅行嫌いの春汀がわざわざ日光まで出掛け、自分の判断に確信を得てから桂月を十和田湖に誘った、というのである。明治期において、春汀の月旦(人物評論)は「天下の絶品」と称えられたが、その特長の一つは「周到な調査にもとづく公平な論評」だといわれる。この日光行には、春汀のその「特長」がよくあらわれている。
桂月は「奥羽一周記」で「げに十和田湖は、風光の美を一つに集めたる、天下有数の勝地也。」と十和田湖を絶賛。その後も幾度となく本県を訪れ十和田湖に近い蔦温泉を拠点に各地を探勝し、1925(大正14)年6月10日、蔦温泉の一室で息を引きとった。春汀は、桂月を十和田湖に招いた年の暮、12月21日に東京麹町で43歳でこの世を去った。その墓碑は東京駒込の吉祥寺に立ち、中村不折(ふせつ)の揮毫(きごう)で「春汀鳥谷部銑太郎之墓」と刻まれている。
(室長・櫛引洋一)
(平成20年5月22日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)
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 春汀最晩年の絵葉書(鳥谷部こと宛)表面
 裏面(明治41年8月2日、日光より)
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