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【青森県近代文学の名品】

Vol.58  中市謙三 句碑拓本「傘さげて/み堂をめぐる/夕嵐」

  中市謙三(1887〜1942)は野辺地町(当時は野辺地村)に生まれ育ち、1902年に青森県立第三中学校(のちの青森中学)に入学した。中学時代から俳句を詠み、卒業後は慶応義塾大学に進学、理財科で学んだのち新聞科にも籍を置いた。14年、大学を卒業し地元に戻り、従兄(いとこ)である野村治三郎が頭取を務める野村銀行に頭取秘書兼庶務係として就職。翌15年3月には治三郎が衆議院議員総選挙で当選、謙三は代議士秘書となり、東京駐在と帰郷を繰り返すことになる。同15年11月、野辺地俳壇で指導的地位にあった野坂十二楼(じゅうにろう)が俳誌「手捏(てづくね)」を創刊、謙三も同人として参加し、俳句や俳論を多く発表する。ちなみに謙三が用いた「絶壁(ぜっぺき)」という号であるが、生家近くを流れる野辺地川の北岸にそびえる断崖と、町の西南に屹立(きつりつ)する烏帽子岳(えぼしだけ)、この二つに由来したものと言われる。

  1920年8月、「黎明」(前年夏に創刊)同人によって開催された文芸講演会に謙三は講師として参加、この頃より謙三の文学活動の舞台は青森市へと移る。在郷の折には「黎明」の歌会や編集会議に参加、淡谷悠蔵をはじめ同人たちと親交を重ねた。また、20年秋に黒石で創刊された文芸誌「胎盤」においては、秋田雨雀とともに編集顧問の役割を果たした。謙三は、この両誌に数年にわたって評論や翻訳を寄稿している。

  1928年秋、謙三は野村銀行を自ら辞職、この頃から郷土研究に取り組み、30年には野辺地町誌編纂(へんさん)委員となる。翌31年から野辺地実科高等女学校に勤務、校務の傍ら雑誌「旅と伝説」に民俗学の論文を数多く発表し、36年夏には著書『野辺地方言集』(三元社)を刊行した。その後謙三は町誌編纂のため、各委員から寄せられた原稿の校閲作業に従事するが、42年8月26日、自宅書斎で脳出血に見舞われ急逝(きゅうせい)。謙三が手掛けた資料は、後進たちの手で54年に『野辺地町郷土史資料』(全3巻謄写版刷り)としてまとめられた。

  当館では、中市謙三自筆の書軸を原本として建立された句碑の拓本を所蔵している。刻まれた「傘さげて/み堂をめぐる/夕嵐」の句であるが「手捏」には掲載されておらず、詠まれた時期、背景等は不詳である。謙三の生家が野辺地神明宮(しんめいぐう)に隣接していたことから、付近の情景を詠んだ句ではという想像を禁じ得ない。しかし、風雨をものともせず神社を訪ね歩く光景と捉(とら)え、この句に郷土および民俗学の研究に没頭した晩年の謙三の姿を重ね合わせることも可能だろう。1972年10月7日、野辺地町愛宕(あたご)公園の高台に据えられ、女学校時代の教え子ら約2百人が参列する中で除幕された句碑である。

(主事・竹浪直人)

(平成20年5月15日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)