Vol.55 増田手古奈 直筆色紙
いで湯の街大鰐。茶臼山公園と呼ばれる小高い丘からは街が一望でき、中央を流れる平川のせせらぎが聞こえてくるようである。この丘の中腹に、大鰐で生まれた俳人・増田手古奈の句碑が静かに立っている。
「山の湯や夕鶯のいつまでも」
手古奈の還暦を記念して、1957(昭和32)年に立てられた。この句は第一句集『手古奈句集』(1949年)に見えるが、句集では「湯」が「温泉」と表記され、高浜虚子が「春の日永の暮れ遅いことを鶯を借りて叙したもの」という短評を付している。今回展示している色紙は、手古奈の直筆である。
増田手古奈は、1897(明治30)年に南津軽郡蔵舘村(現在の大鰐町)で生まれた。東京帝国大学法医学教室で血清学を研究していた手古奈は、1923(大正12)年、虚子門下に入って俳句をはじめた。虚子門ホトトギスの四S(誓子、青畝、素十、秋桜子)台頭の時代で、手古奈はその後に続く新人の一人であった。
1931(昭和6)年1月、手古奈の帰郷を機に大鰐で俳誌「十和田」を創刊。巻頭の頁には〈初刊の辞に代へて〉として「山々の紅葉しそめしいでゆかな」「初雪の山横ふや温泉の町」の二句を掲げた。東北唯一のホトトギス系統雑誌であった。手古奈のもとには、創刊の年の富安風生、前田普羅、池内たけしをはじめ、著名な俳人が次々と訪れ歓迎句会が開かれた。
そして、1939(昭和14)年には師の高浜虚子が大鰐を訪れている―「みちのくもこゝまで来たり花りんご」。虚子は、前述の『手古奈句集』刊行にあたり、次のような序文を寄せている。「その句は常に平常心を失はない。壮大な景色、大きな活動を描くにしても、悠揚として迫らない。巧みな叙法といつてもけれんは少しも無い。どことなくゆつたりしてゐて、大人の風格があると云へる。斯くして手古奈君はとこしへに東北の俳諧の重鎮たるを失はない。」
手古奈は虚子の唱えた客観写生の俳句の道を60年以上にわたって広め、「十和田」は手古奈が97歳で逝去する1993(平成5)年の734号まで続いた。茶臼山公園の手古奈句碑の傍に立つと、早春の大鰐温泉の彼方に、残雪の岩木山が青く霞んで見えている。
(室長・櫛引洋一)
(平成20年4月24日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)
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