| Vol.54 青山哀囚 歌碑拓本
「大陸奥野(おおむつの)/わがたましひは/地にそひて/北にあゆめり/低く飛ぶ雲」
七戸城趾柏葉公園に存在する青山哀囚歌碑に刻まれている歌であり、遺稿歌集『秋草の実』に見られる一首である。当館では、この歌碑の拓本を所蔵している。
青山哀囚(あいしゅう)(1894〜1929)は岩手県二戸郡一戸町の出身、父が七戸の青岩寺の住職となったことに伴い、6歳の時に七戸町(当時は七戸村)に移住した。七戸小学校高等科を卒業後、県立第三中学校(のちの青森中学校)に進学、優秀な成績を修め特待生となるが家事都合により1909年に退学、短歌を作り始めたのは同年のことであった。農作業の傍ら歌作に勤(いそ)しみ、11年秋には県内初の活版印刷による短歌誌「東北」に参加、翌12年5月発行の第4号には冒頭で掲げた歌の原型と見られる作品が掲載されている。
「大むつ野わがたましひは地に伏していづちゆくらむ雲低う垂る」
ちなみに、この時点では号は「泣子」であったが、第6号(12年9月)において初めて「哀囚」の号が用いられた。第7号(12年11月)では和田山蘭から「青山哀囚氏の近時は最も活目に値すべく」「将来の進境必ず畏るべきもの」と評され、哀囚は県歌壇で注目されるに至った。
1913年秋、早稲田大学文科入学を志し上京するも翌年2月に帰郷、一時青森の歩兵第五連隊に入営したのち、七戸尋常高等小学校の代用教員となった。ここで哀囚は子どもに表現活動を行わせることを重視した独特の教育法を実践、教え子の中に画家となる鷹山宇一がいた。19年、父の病を受けて代用教員を辞し、青岩寺仮住職となる。25年には短歌研究会「草日社(そうじつしゃ)」を設立し主宰するが、翌26年冬、文部省教員検定試験の準備専念のために会を解散。翌27年、秋本啄果(たくか)を中心に結成された第二次「草日社」に参加し、29年10月には社友の懇願を受けて歌集『あてなく』を出版した。しかし、歌集刊行から2週間を経ない11月2日、かねてから患っていた腎臓病の悪化により帰らぬ人となった。
1962年11月2日、七戸小学校校庭の樅(もみ)の巨木の下に青山哀囚歌碑が建立された。また、70年には遺稿を元に『青山哀囚歌集』が刊行されている。いずれも哀囚を偲ぶ、かつての教え子たちの取り組みによって実現したものであった。ちなみに七戸小学校は70年夏に新校舎へと移転、1キロほど北の上町野(うわまちの)に移ったが、哀囚歌碑は町を一望できる七戸城趾の一角に今なお密(ひそ)やかに佇んでいる。
(主事・竹浪直人)
(平成20年4月17日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)
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