Vol.52 今外三郎・訳『農場整備論』
明治20年刊行
原著は明治17年にイギリスで刊行された農機具や農場整備に関わる農家必携の書物である。しかしここで紹介したいのはこの訳本というよりも訳者、今外三郎の人物についてである。陸羯南の日本新聞社に勤めていた青森県出身者の一人であるが、調査不足のため昨年度の特別展「陸羯南と正岡子規」では取り上げることができなかった。
今外三郎(こん・そとさぶろう 1865-92)は弘前藩士の家に生まれ、明治18(1885)年に札幌農学校を卒業した。同窓の志賀重昂(しが・しげたか)は親友で、志賀は長野県師範学校の教師として、今は長野県中学校の教師として、ともに松本に赴任した。しかし2年ほどで職を辞し、明治20(1887)年頃上京、両人とも杉浦重剛(すぎうら・じゅうごう)の東京英語学校の講師となる。長谷川如是閑(はせがわ・にょぜかん)は当時この英語学校の生徒であり、今のことを「此先生は夭折されたが、若い、落ついた無口の先生で、私は虫のせいか頗る此先生がすきだった」と『日本新聞と「陸さん」の印象』(「日本及日本人」大正12年9月1日号所収)の中で回想している。明治21(1888)年、今は三宅雪嶺(みやけ・せつれい)、志賀重昂らと政教社を設立し雑誌「日本人」を創刊、政府の極端な欧化主義政策に反対し、日本の伝統文化を守り、自由、平等の価値を擁護する言論活動を展開していく。今は創刊号に「日本殖産策」と「日本の実力」というタイトルで寄稿している。また翌明治22(1889)年、日本新聞社創立時には札幌農学校の恩師であった宮崎道正のもとで日本新聞社の会計を担当したが、1年余で宮崎や社長代理を務めていた杉浦重剛とともに「日本」を離れた。また大隈外相の条約改正に対する反対運動の牙城である日本倶楽部(杉浦重剛、福富孝季(ふくとみ・たかすえ)らが発起して、谷干城(たに・たてき)、浅野長勳(あさの・ながこと)らが資金提供し明治22年6月頃設立)の幹事を努め、反対運動の演説会には池辺三山らとともに登壇し世論の喚起を促した。明治24(1891)年、今は論説記者として東京朝日新聞社に入社し将来を嘱望されたが、翌年、肺結核のため26歳という若さで亡くなった。
このように政教社の中心メンバーとして雑誌「日本人」やその後継誌「亜細亜」の論客として活躍した今外三郎についてはもっと調査する必要がある。また未見だが、著書に「日本酒改良實業問答」(明治22年)がある。
(館長・黒岩恭介)
(平成20年04月03日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)
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