少年小説「あゝ玉杯に花うけて」で一世を風靡した佐藤紅緑は、明治7年弘前市に生まれた。青森県尋常中学校(現弘前高校)を中退、上京し同郷の先輩・陸羯南(くがかつなん)の玄関番となる。明治27年、羯南の経営する新聞「日本」に入社、そこの社員であった正岡子規と出会い俳句を学んだ。〈紅緑〉という号は、子規が紅緑の本名・洽六(こうろく)からつけたものである。明治28年、帰郷した紅緑は東奥日報社に入社、日本派の俳句を唱道し、いち早く本県に新派の俳句の種を蒔いた。
子規門下の俳人として一家をなした紅緑であったが、明治39年最初の脚本「倈 艶録(きょうえんろく)」が上演され大成功を収めると、一躍新派の人気劇作家となる。また、この時期には小説も発表、劇作家・小説家としての活動が顕著となり、俳句から遠ざかっていく。
「家出せし子を思ふ夜の雪深し」
世に認められた紅緑ではあったが、紅緑の家庭内は穏やかなものではなかった。紅緑の息子達は長男で詩人のサトウハチローを筆頭に、様々な問題を起こしては勘当された。勘当に勘当を重ねた息子達ではあったが、それでも気に掛け援助せずにいられない。「家出せし子を思ふ夜の雪深し」は、そんな紅緑の心情がにじみ出す句軸である。
この句軸は、青森県近代文学館・常設展示室に展示している。
