名品コーナーへ  文学館TOPへ

【青森県近代文学の名品】

Vol.45 菊谷栄原稿「最後の伝令」
昭和6(1931)年6月15日 

 日本の喜劇王と呼ばれ、「エノケン」の愛称で親しまれた榎本健一(1904-1970)の活躍は、昭和の初め、浅草の舞台で始まった。昭和4(1929)年、新しい喜劇を目指し旗揚げした劇団「カジノ・フォーリー」に参加、「新カジノ・フォーリー」「プペ・ダンサント」を経て、昭和6(1931)年に「ピエル・ブリヤント」を結成。喜劇俳優として爆発的な人気を博してゆく。当時、榎本の座付き作家として活躍、その人気を支えたのが、青森市出身の劇作家・菊谷栄(きくや・さかえ 1902-1937)であった。 
 
 画家を目指して上京した菊谷は、行きつけの浅草のおでん屋で榎本と知り合った縁で「新カジノ・フォーリー」に舞台装置家として参加。やがてレヴュー(音楽劇)作家となって榎本と行動を共にし、「リオ・リタ」「巴里(パリ)の与太者(よたもの)」「民謡六大学」など、7年間に約80本の作品を書き下ろした。ジャズを中心とした音楽を重要な要素として扱った菊谷の作品は高く評価され、大人気を得て続演が相次いだ。こうして、エノケン率いる「ピエル・ブリヤント」は黄金期を迎える。 
 
 「最後の伝令」は、昭和6年「プペ・ダンサント」で初演されたエノケン喜劇の代表作である。舞台は南北戦争、北軍兵士トムと恋人・メリイの別れを描く「悲涙血涙戦争哀話・大悲劇」のはずが、台詞は忘れ、段取りは失敗、と舞台裏は大混乱。ドタバタの連続のうちに幕となる爆笑喜劇で、以後も繰り返し上演され「エノケン喜劇の伝家の宝刀」と評された人気作品であった。 
 
 原稿の表紙には「清野^一原案 佐藤文雄脚色」と記されている。「清野^一」は榎本の筆名、「佐藤文雄」は、当時官憲から左翼的傾向を疑われていた菊谷が、本名で作品を発表することを避けて友人の名を借りたものという。当時の社会背景とともに、喜劇役者・榎本健一と作家・菊谷栄が共同作業でこの作品を作り上げたことが示されている。 
 
 昭和12年9月、菊谷は日中戦争に応召。出征の日、榎本は舞台を中断し、仲間と共に駆けつけ無事を祈ったという。その祈りも届かず、菊谷はわずか二ヶ月後に中国・河郭鎮で戦死を遂げる。35歳であった。 
 
「僕は敵弾に斃れる最後の時までレヴュウ人としてものを見るでせう」戦地に赴く直前、同僚の大町龍夫にそう書き送った菊谷。最期まで劇作家として生きようとした彼を、仲間は劇団葬としてジャズによる告別式で悼んだ。多くの舞台人に惜しまれた、早すぎる死であった。       

(主幹・佐々木朋子)

(平成20年2月14日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)