【青森県近代文学の名品】

Vol.44 「自恃言行録」
明治32年 縦22cm 横14.8cm 444頁 非売品 川那邉貞太郎発行兼編輯

 陸羯南(1857−1907)についていろいろ調べていくうち、その周辺の人物たちの中で、最も興味を惹かれた一人が高橋健三(1855−98)である。羯南もそうだが、高橋健三は私利私欲と無縁、志の高い明治人の典型のように思えた。惜しむらくは高橋もまた胸を病み、42歳という若さで亡くなっている。
 陸羯南と高橋健三がはじめて親しく接したのは、明治18年末、内閣制度が発足して、羯南が内閣官報局編輯課長、高橋がその上司として官報局次長を勤めていたときである。思想的には羯南と同じく国粋保存主義に徹していて、官にありながらも、時の政府の極端な欧化主義政策に反対の立場を貫いた。また明治22年、新聞「日本」創刊時には羯南に協力、援助している。官報局長としては、日本で初めての輪転印刷機を導入、これは明治23年パリに出張して最新式の印刷機を発注し購入したもの。ちなみにこの時日本新聞社と朝日新聞社も同じ輪転印刷機を購入した。また官報局専属の印刷所を設立しランプを廃し電灯を整備するなど、官報印刷のためのインフラを整えた功績があった。文化方面では、明治20年わが国ではじめての書評の専門誌「出版月評」を創刊したのも、また明治22年わが国ではじめての美術研究誌であり、現在まで続いている「國華」を創刊したのも高橋健三である。特に美術品に対する鑑識眼は鋭かったという。明治25年11月、官から身を退いたあと翌年1月、大阪朝日新聞社に客員として入社、論説に健筆を振い、大阪朝日を通俗的な新聞から格調ある新聞に一新させた。第2次伊藤内閣の条約改正問題では、神戸における外国人居留地の実情を精査し、内地雑居に反対して条約励行論を主張、羯南の新聞「日本」の論調と軌を一にして東西で反対運動を盛り立てた。
 明治29年第2次松方内閣成立時、高橋は病を押して内閣書記官長(現在の官房長官にあたる)の職を引き受け内閣の中枢を担った。志の高い高橋の目指す内閣は後世の亀鑑となる政治であった。明治30年3月新聞紙条例を改正、発行禁停止処分を緩和したのは高橋の尽力によるところが大きい。しかし10月には病を理由に辞職した。その後、朝日新聞に復し「松方内閣興亡史」などの論説を執筆した。
 ここに紹介する「自恃言行録」は高橋健三の没後まとめられたもので、伝記と羯南を含め50名の友人が高橋との思い出を綴っている。自恃庵は高橋の雅号である。この中で羯南が「自恃庵の書柬(しょかん)」という文章を寄せ、羯南宛の高橋の手紙を引用しながら「私」のない高橋の人となりを紹介している。

(館長・黒岩恭介)

(平成20年02月07日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)

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高橋健三