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ロシア文学者の池田健太郎が、市井(しせい)のロシア文学研究家・鳴海完造(1899〜1974・黒石市)の寓居(東京)を訪ねたのは、鳴海が世を去る三年あまり前のことであった。池田は、プーシキン『エフゲニー・オネーギン』、ゴーゴリ『検察官』の原書の初版本など、ソビエト政府がロシア革命以前の刊行物として国外持ち出しを禁止していた珍品をはじめとする約千冊の蔵書と鳴海の浩瀚(こうかん)な学殖(がくしょく)に驚き、やがて、鳴海の郷里黒石の土蔵にねむる蔵書の整理を請け負うことになる。当時を回顧して池田が書いた「偉大なる書痴 鳴海完造」(「文藝春秋」昭和50年10月号)に、次のような一節がある。
「黒石市の土蔵にねむる三千冊の書物は、これまた見事な蔵書であった。そこには、前世紀末から今世紀30年代はじめにかけて、すなわちソビエト革命をはさむ、ロシア文化の異常な高揚と急激な没落と、そして新たな苦しい再建との、もっとも興味深い時代の作家、詩人、批評家、学者たちの仕事が、まるで昨日の時代のことのように、無造作に林立していた。」
東京と黒石を合わせた蔵書数は4300点にものぼり、ツルゲーネフの直筆書簡2通も含まれていた。池田と蔵書の整理にあたった一橋大学教授の中村喜和は、「書痴だ、鳴海さんは書痴ですね」としきりにつぶやき、ある夜感に堪えぬように「つまらぬ論文を書くよりは、これだけの蔵書を蒐集(しゅうしゅう)するほうがはるかに後世有益ではないか」と語ったという。
鳴海完造は、明治32年8月10日、南津軽郡黒石町(現・黒石市)に生まれ、旧制弘前中学(現・弘前高校)、東京外国語学校露語科をへて早稲田大学露文科に進学。昭和2(1927)年9月、ソ連革命記念十周年記念祭に招かれた秋田雨雀に同行、その後レニングラードの東洋学院と国立レニングラード大学の日本語講師をつとめるなどして、昭和11年まで9年間ソビエトに滞在し、熱心に資料蒐集を行う。帰国後、浦賀ドック、昭和通商、弘前大学図書館、東海大学図書館などに勤務。弘前大、東海大ではロシア語の講師もつとめた。昭和49年12月9日、東京の昭和医大付属病院で75年の生涯を閉じる。
鳴海に論文はほとんどないが、死去の3ヶ月ほど前の8月30日、入院中危篤状態を脱した時に書いた詩の原稿が残っている。藁半紙に黒のサインペンで力強く書かれた原稿は、「詩 大きな感謝のなかに大きな怒りを!」というタイトルではじまり、「諸悪を告発する庶民の一人として、やがて病室を出る日にそなえ、再び還って来た小さな生命を守りぬくため、今しばらくここで大きな感謝のなかに大きな怒りをも貯えよう!」と結ばれている。鳴海完造が〈書痴〉と言われるほどの情熱を傾けて遠い〈東の国〉で蒐集した資料の数々は、戦火をくぐって津軽の一隅に生き残り、現在、一橋大学附属図書館に鳴海文庫として生き続けている。
(室長・櫛引洋一)
(平成20年1月31日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)
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