【青森県近代文学の名品】

Vol.42   川崎むつを 歌集『カムサッカの歌』『出帆旗』 

  「何時からか 何時死んでもいいと思っている こういう時もきた ありがたいことに」
  口語歌人である川崎むつを(1906〜2005、青森市出身)が晩年に詠んだ歌であり、第5歌集『北の川のほとり』(2001年、青森大学出版局)に収められている。この歌から6年を経た2005年9月、川崎は98年の生涯を終えた。亡くなる20日程前には主宰してきた歌誌「波止場(はとば)」の歌会に参加、最期まで口語歌の創作者であり続けた。青森文学会代表ならびに青森県啄木会の会長を務め、青森市合浦公園、野辺地町愛宕(あたご)公園、十和田湖畔休屋、大間町大間崎の4ヶ所に石川啄木碑を築いた功績でも知られている。

  川崎が歌作を始めたのは函館商船学校在学中、啄木の歌集に親しんだことがきっかけであった。当初は文語で短歌を詠んでいたが、指南を得るため淡谷悠蔵のもとを訪れた際、鳴海要吉のローマ字歌集『TUTI NI KAERE』と出会い衝撃を受け、以降口語歌に転じる。1925年には県内初の口語歌誌である「オリオン」を主宰、商船学校を卒業したのもこの年であった。その後、航海士になるため練習生として帆船や商船に搭乗、北はカムチャッカから南はインド洋まで航海を経験した。1929年、海運業の不振という時勢もあって船から離れるが、函館丸に乗船していた25年までの作をまとめた歌集『カムサッカの歌』を「オリオン」35特輯として発行、次の歌はその中の一首である。
  「明日にでも雪の来さうな/カムサツカの空を見ながら/索(つな)をひいてる」

  そして30年1月「オリオン」は青森県初の総合文芸誌「座標」に統合され、川崎は「座標」の常任編集委員となるが、一年半務めたのち上京。プロレタリア歌人同盟に所属するとともに、福士幸次郎宅に寄寓し多くの知己を得る。34年には帰郷して「東奥日報」に入社、多摩丸・印度丸に乗船していた時期の作品に『カムサッカの歌』の抄録を加え、歌集『出帆旗(しゅっぱんき)』(オリオン社)として刊行したのは35年12月のことであった。さらに翌年には同名の口語歌誌「出帆旗」を創刊しているが、出帆旗とは「出航準備、全員帰船せよ」を意味する国際信号旗であるから、川崎にとって新たな船出という思いが込められたタイトルであったことが窺える。なお船乗りをやめた理由について川崎は、性格的に「自分にむかない」仕事であると知ったためと後日回想しているが(「漂泊の心」)『出帆旗』には理想の自分を模索することの苦しみを歌った作品が多く見られる。
  「誰だ 俺の心をのぞいてゐる奴は/夜更け 丸窓(ボールト)のカーテンをひく」
  「伸び 縮み 光り 輝き 波の影/真昼 船室(ケビン)の天井に舞ひ」

  『カムサッカの歌』そして『出帆旗』、口語歌一筋を貫いた歌人の青春の希望と苦悩が活写された、珠玉の歌集である。

(主事・竹浪直人)

(平成20年1月24日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)

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『カムサッカの歌』(1929年4月、オリオン社)


『出帆旗』(1935年12月、オリオン社)
表紙は青地に白い四角を抜いた出帆旗のデザイン。70年に歌集出帆旗刊行委員会によって復刻された。