Vol.40 「日本画報 第30号」
明治38年8月28日竪39.6cm 横27cm 日本新聞社刊
近代文学館では昨年の特別展「陸羯南と正岡子規」開催にあたって、「日本画報」を創刊号から第39号まで入手した(ただし第27号と29号は欠)。これは新聞「日本」の附録として明治37(1904)年6月6日に創刊され、隔週月曜日に発刊された日本で初めての写真製版によるグラフ誌である。現在のところ第42号までが確認されている。
前年の明治36(1903)年、陸羯南はアメリカ、ヨーロッパを旅行している。目的は近衛篤麿の依頼で、津軽家の養子であり、明治19年以来ベルリンに留学中の実弟、津軽英麿(ふさまろ)を説得して帰国させることであった。日本新聞社も近衛に譲ることがほぼ決まっていたので、お疲れ様の意味合いもあった世界一周の旅であった。ところが帰国してみると近衛が急死、羯南はまたしても断末魔の新聞社経営に悪戦苦闘しなければならなかった。そんな時、新聞の売れ行きを少しでも伸ばすために、ヨーロッパでは事件の2時間後には写真入りの号外新聞が出回り事件をリアルに伝えている、そのような写真入り新聞を「日本」で実現できないものかと、羯南は写真製版の技師に開発を依頼したのである。
国民の注視する日露戦争が勃発して間もない時期で、「日本画報」はその関連写真を掲載し、羯南の思惑どおり、新聞「日本」の売りになった。大判の写真と簡単なキャプションが日本語と英語で併記されていて、外国人の読者も想定したようだ。
この第30号の表紙を飾るのは、日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)を締結する当事者たちの写真である。右に日本の全権小村寿太郎と高平小太郎、左側にロシア全権セルゲイ・ウィッテとローゼン、中央にはこの条約を斡旋したアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトといった陣容である。どのような結果に終わるか国民が固唾を飲んで期待し見守るなか、時宜を得た特集であった。本紙「日本」では1面に『談判上の巧拙』の見出しのもと、数日後(9月5日調印)に結果の出る条約の内容は日露全権の交渉力に係っていると説き、2面では『日露全権初会合の光景』という見出しで、戦艦メイフラワー号上での全権たちの一挙手一投足をアメリカの新聞に掲載された記事から目に見えるように翻訳している。
現在この「日本画報」は復刻計画が進行している。順調にいけば、新聞「日本」を復刻した「ゆまに書房」からこの5月を目処に刊行される予定である。 (館長・黒岩恭介)
(平成20年1月10日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)
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