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【青森県近代文学の名品】

Vol.34  大町桂月「太陽」第14巻第13号(「奥羽一周記」掲載)

   大町桂月(1869〜1925年)は高知藩土佐郡(現高知市)出身、桂月という号は月の名所として名高い郷里の桂浜(かつらはま)にちなんだものである。帝国大学在学中から文芸雑誌に評論や詩歌を発表、卒業後『花紅葉』『黄菊白菊』(いずれも博文館)といった美文韻文集を刊行し文名を高めた。1900年に博文館に招かれ約5年間勤務、総合雑誌「太陽」で文芸時評や教育時評に健筆を振るった。山水行脚を好み多くの紀行を残したことでも知られ、秘境だった十和田湖の存在を世に広めた功績から十和田湖国立公園功労者の一人に数えられている。

  桂月が十和田湖を初めて訪れたのは1908年8月、「太陽」主筆の鳥谷部春汀(とやべしゅんてい)に誘(いざな)われてのことだった。春汀の生地である五戸を出発点に、地元の案内人を含めた一行は、戸来(へらい)村(現新郷村)を経て十和田湖畔に至り、宇樽部(うたるべ)や十和田神社鎮座の霊地である休屋(やすみや)を探索。その後、桂月は春汀とは別行動で奥入瀬渓流・蔦温泉・三本木と巡り、汽車で八戸・弘前も探訪。秋田県の小坂村(現小坂町)を回って十和田湖を西側からも眺望し、大館から汽車で帰京という足取りであった。この旅に取材して書かれたのが、当館所蔵の「太陽」第14巻第13号(1908年10月)に掲載されている紀行、「奥羽一周記」である。結び近くで桂月は、「天下、山川を愛するの士に告ぐ。必ず往いて十和田湖を見よ。往きか、帰りかには必ず奥入瀬渓を過ぎよ」と呼びかけている。もっとも、雑誌「太陽」にはこれ以前にも大塚甲山(おおつかこうざん)(現東北町出身)の「十和田紀行」(1907年11月)や遅塚麗水(ちづかれいすい)の「十和田紀遊」(1908年9月)といった紀行が掲載されており、桂月の文章をもって十和田湖紹介の嚆矢(こうし)とすることはできない。しかし、詩文作者・評論家として脚光を浴びていた桂月の言葉が、世人に大きな影響を及ぼすものであったことも事実である。加えてこの文章は単行本『行雲流水』(1909年、博文館)に収められ、一層衆目を浴びる結果となった。その際タイトルは「奥羽一周記」から「十和田湖」に改められ、若干の加筆訂正が施されている。

  なお桂月は1921年に十和田湖を再訪して以後、頻繁に青森を訪れ、晩年の多くを蔦温泉で過ごした。永住の地と考え本籍を移すほど蔦温泉への愛着は深かったが、1925年6月、病により同地で急逝した。その山水行脚は下北・津軽両半島まで及んでおり、今日、県内に存在する桂月関連の文学碑の数は40基を超える。青森県に多くの足跡を残した文人である。

(主事・竹浪直人)

(平成19年11月22日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)