| Vol.27 秋田雨雀 草稿「盲詩人ワシリー・エロシェンコの話」
日本が国際連盟を脱退し全世界に暗雲が垂れ込めていた昭和8(1933)年6月、秋田雨雀(1883〜1962・黒石市生まれ)は雨雀生誕50年祝賀会の謝辞で次のように述べた。「たとえ、小さな作家としてもロマン・ローランやアンリー・バルビュスたち(フランスの小説家・平和運動家)がヨーロッパの良心として立っているように、日本の社会における一つの良心的存在として生きて行きたい」
東京専門学校(現・早稲田大学)時代に詩人として出発した雨雀は、小説、戯曲、児童文学、評論など、中央文壇で多彩な文学活動をおこなうが、それにとどまらず、新劇運動、エスペラント運動、社会運動と幅広い分野で活躍した。それらの活動は形こそ違え、「日本の社会における一つの良心的存在として生きて行きたい」というヒューマニズムに裏付けられたものであった。
雨雀に大きな影響を与えた人物に盲目の詩人ワシリー・エロシェンコ(1889〜1952・ウクライナ)がいる。その出会いを、雨雀は草稿「盲詩人ワシリー・エロシェンコの話」に次のように書いている。「大正の初め頃に、私たちのところに、ワシリー・エロシェンコという眼の見えないロシヤの詩人が来ていました。エロシェンコはバラライカという三角の楽器を鳴して淋しい聲でロシヤの昔からの民謡をうたっていました―」(NHΚの放送番組「趣味の手帖」のために書かれた。昭和28年8月12日脱稿。『秋田雨雀日記』第4巻による)
日本に亡命していたエロシェンコが雨雀のもとを訪ねたのは、大正4(1915)年2月。劇団〈新時代劇〉の北海道巡業に大失敗して人生に絶望していた雨雀は、エロシェンコが盲人でありながら「世界を一つのことばで結ぶ」国際語・エスペラントのために熱心に働いていることを知る。雨雀がこの言葉を知ったことは「人生を別の眼で見ることが出来た。そしてたくさんの仕事が私の前に現われて来た」と『雨雀自伝』にあるように、苦難を切り開く契機となり、その後熱心にエスペラント運動を展開することになる。
(室長・櫛引洋一)
(平成19年10月4日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)
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