青森県近代文学館
The Museum of Modern Aomori Literature



平成18年度 調査員報告

野村聡 調査報告

調査対象工藤他山 くどう たざん
プロフィル弘前生まれの藩士、学者、教育者。自力で私塾を開き多くの優れた門弟を育てると共に、津軽藩の税制、職制などの研究に意を傾け、津軽藩史を編纂。歴史学者外崎覚の父。
生没年1818(文政元)年10月10日-1889(明治22)年2月27日
主な作品『津軽藩史』(全7巻)『津軽藩官制・職制・禄制・租税制』
青森との関わり弘前出身。津軽藩稽古館で助教。弘前、中里村(現中泊町)、青森で私塾を開く。東奥義塾でも教鞭を執る。
作家解説  津軽藩の家臣の家系に生まれた工藤(他山は号、名は主膳、字は温克)は、私塾(寺子屋)を開いて多くの子弟の教育にあたり、藩学や明治初年代の東奥義塾でも笹森儀助、陸羯南らを導いた教育者であり、同時に津軽藩の歴史、行政、制度などを整理・編纂した史家である。弘前で幼少の頃より刻苦勉励、文に秀でその才に抜きん出ていたところから、若年にして藩の助教に任命されたが、学を志して自力で江戸、大阪に出、学識を広めた。当時は自費での上京・向学は珍しく、彼の学問への厚い志がそのことからも窺える。しかし学を修めながらも貧困な生活がたたって病気となり、帰郷を余儀なくされる。帰郷後は郷里弘前、中里村(現中泊町)、青森に私塾を開き、教育者としての道を進んだ。鷗外作の評伝小説『澁江抽齋』に登場する外崎覚(覚蔵)はこの中里在住の時の子で、他山の次男である。青森では入塾者が少ないため一方で露店を営まねばならぬほど困窮な生活をつつけていたが、維新直前に藩学の稽古館に再び助教として招かれた。だが彼は官学の職に飽き足らなかったのか、藩学奉職の傍らでも私塾を開き、多くの門弟を育てた。明治になっても東奥義塾の教授となって多くの優秀な人材を輩出した。退職後は津軽藩の歴史研究に没頭、初代為信より幕末までの歴史を漢文体で叙した『津軽藩史』7巻、行政組織等を記録した『津軽藩官・職・税制』を編纂するなど学問の道でも多大な功績を遺す。激動の幕末から新時代の明治へと移り行く中で、貧困をものともせず、まさに教育と学問の道に捧げた生涯であった。岩木山を詠じた詩は彼のその確固たる信念を伝えるようである。「三峰高潔恰瓊瑶/何必須探富士遥/山貌堂堂君子様/巍然接王立青霄」(三峰は高潔にして恰も瓊瑶(たま)のごとし/何ぞ必しも須く富士の遥を探すべからんや/山貌は堂堂として君子の様/巍然として王を接ぎ青霄に立つ−私訓)他山の著作、子息覚の監修した他山の語録などは現在弘前市立図書館に保管されている。
関連資料再版『津軽藩史』

図書(和綴)、1897(明治30)年3月15日、210o×140o

津軽藩の歴史を扱った『津軽藩史』(巻1〜7)を1冊にまとめ、青森の鎌田書林より再販された歴史書。初代為信公の時代より最後の藩主承昭の時代まで編年体で綴った。全文漢文体。