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【陸羯南と正岡子規4】

子規入院


子規宛て羯南書簡末尾部分(明治28年7月30日)
「・・・余は別に変りも無之候。隣家御母妹は無事、御安心あれ。弊家も無事なり。
草々/七月卅日 実/常規様/清算余剰は御返しに不及、来月中は入院中と
見做して其金を社より差上候。其後は御自弁と被成度候。 」

羯南宛て子規書簡冒頭部分(明治28年6月25日)
「拝啓 先日中ハ尊大人御病気之ため御帰省被成候由承候。如何御座候哉。
小生入院後何くれと御厚情ニ与かり奉拝謝候。・・・」


 羯南と子規との出会いは明治十六年に遡る。司法省法学校以来の親友加藤拓川から甥の子規に会ってやってくれと頼まれた羯南は、上京したばかりの子規と四谷の自宅で会った。その時子規は「加藤の叔父が往けと言ひますから来ました」とだけ言ってあとはすましていたという。これが六月の下旬のことで、子規は十一月フランスへ留学する叔父拓川を横浜まで見送っているが、この時羯南も一緒だった。明治十八年の秋にも子規は羯南を四谷に尋ねている。
 大日本憲法発布の日、つまり新聞「日本」の創刊の日でもあるが、この日明治二十二年二月十一日の東京は一面銀世界であった。子規は第一高等中学校の生徒で、運動場に集まり憲法発布を祝った。その後芝の園遊会に行く途中「日本」創刊号を手にしている。その時、やがてこの「日本」を舞台に俳句や短歌の革新運動を展開し、わが国文学史上傑出した存在になることを果たして子規は予感しただろうか。
 それはさておき、羯南の子規に対する深い愛情は、明治二十五年子規を根岸の自宅隣に下宿させ、松山から家族(母八重と妹律)を呼び寄せるよう勧め、「日本」に入社させ、子規に活動の場を提供したことに始まるわけであるが、最も濃厚にそれが発揮されたのは、明治二十八年五月、子規が日清戦争の従軍記者として中国からの帰途、船中で大量喀血、人事不省で神戸の病院に緊急入院した時であった。それを如実に示す、こまやかな、思いやりに満ちた羯南の二通の書簡が、今回の展覧会に出品されている。一通は六月二日付の高浜虚子宛である。もう一通は六月九日の日付を持つ竹村鍛、虚子、河東碧梧桐の三人に宛てられたもの。これら二通の書簡は昨年初めて公開されたもので全集未収録である。虚子宛の書簡には、虚子の献身的な看護に対する丁重なお礼、碧梧桐の付き添いで母八重が神戸に向かったこと、入院費用や虚子の滞在費はすべて社が負担すること、子規の従軍が痛恨の極みであることなどが記されている。二通目の書簡には、詳細な病状報告に対するお礼、快方に向い一安心していること、入院費については一日一円、虚子の経費は月々五円の計算で、六月分として三十五円、為替で送ったこと、その他相談があれば遠慮なく申し出ることなど、とにかく何も心配せずに子規の看病にあたって欲しい旨書かれている。羯南自身のことについては明日から父の病気見舞いのため弘前に帰省することが記されている。
 一人の若い社員の入院騒ぎに社長羯南は陣頭指揮で人の手配や費用の工面にあたったのである。またこの展覧会には子規が退院する頃の羯南と子規の書簡が最初のコーナーに展示されている。回復が決定的になったからであろう、須磨保養院に転院した子規に宛てた七月三十日付書簡の羯南の筆使いの何と優雅なことか。追伸のかたちで余ったお金は返さなくて良いと、さりげない配慮も欠かさない。それに対して子規の羯南に対する六月二十五日付の礼状は回復途上の病人とは思えないほど、力強い墨跡を見せる。これは子規研究家和田克司氏からのご教示であるが、力強く見える筆跡は羯南に対して健康を取り戻したことを示そうとして子規がかなり無理をして書いているという。墨継ぎも頻繁で子規の虚勢が見えるという。こういった子規の心理の有り様はオリジナルを見なくてはとうてい分かりようがない。読者の方々には是非会場でご覧いただきたいものである。

(館長・黒岩恭介)

(平成19年8月18日付・「東奥日報」掲載)