東奥日報 2006年8月21日朝刊

3 荻原井泉水と弘前の俳人たち(松木星陵)

櫛引洋一

 河東碧梧桐が「三千里」行脚の旅で第二次旅行から帰った明治四十四年、荻原井泉水は碧梧桐を戴き、新傾向をさらに一歩進めた「層雲」を創刊する。その翌年の大正元年十月七日、井泉水が本県を訪れる。秋田での県下俳句大会出席のあと、同友の安斎桜磈子、大館の香秋を伴って弘前に到着した日は、岩木山に初雪が降る寒い日であった。

岩木初雪聞く夜寒帰心あはたゞし 桜磈子
 七日、八日の二夜、地元の俳人成田夜雨宅で互選会「井泉水、桜磈子滞留句会」を催す。参加者は井泉水、桜磈子、香秋のほか、地元の夜雨、竹内抱甕子ら九名。席題は七日が蜻蛉、八日が芒。
修覆二王も朱に生きて蜻蛉日和なる 抱甕子
などの句が見える。
 七日の夜、井泉水は翌日帰途につく桜磈子とその夜限りの同宿。それぞれ次の句を残している。
会後泊る二人あり銀河濃き夜なる 井泉水
心親しむも言はず別れの夜長寝る 桜磈子
 この年、井泉水は〈季題無用論〉を唱え、やがて自由律俳句へと移行。「層雲」からは種田山頭火、尾崎放哉といった異色の俳人が現れる。「井泉水、桜磈子滞留句会」に集った弘前の俳人らは大正四年に「層雲」弘前支部を結成、井泉水派の旗幟を鮮明にする。
 昭和に入り、井泉水の序をいただいた二冊の遺句集『松木星陵遺句集』(昭和四年)『抱甕子遺稿』(昭和九年)が弘前で刊行される。抱甕子(明治十四年〜昭和八年・弘前市)は大正元年の「井泉水、桜磈子滞留句会」に参加し、松木星陵(明治十二年〜昭和三年・弘前市)はその時井泉水のもとを訪ねている。ともに明治の日本派俳句時代からの長い句歴をもつ。井泉水は当時を偲び、『松木星陵遺句集』の序文に次のように記す。
憶へば、私が星陵君に逢つたのは、大正元年の秋、弘前を尋ねた時である。夜雨亭の一夜、火鉢の火をさかんにおこした前で、林檎をむきながら語りあつた事は、まことに古い記憶になつたが、純樸そのもののやうな君の風采、態度は今もなほ私の眼の前にある。
 

(青森県近代文学館室長)