青森県近代文学館
The Museum of Modern Aomori Literature

企画展「生誕110年―淡谷悠蔵展」

淡谷悠蔵の生涯
阿部誠也

1.少年時代
2.山に入る―「黎明」「座標」のころ
3.「野の記録」の時代〜終戦
4.終戦〜政治の世界へ
5.再び「山」へ〜晩年



1.少年時代  明治30(1897)年〜大正6(1917)年

 淡谷悠蔵は、明治30(1897)年3月22日、青森町大字寺町7番地(現・青森市本町一丁目)に、父・金蔵、母・まつの13人兄弟の末っ子として生まれた。父は代々続いてきた「大世・阿波屋」を本家とする「大五呉服店」を営んでいた。奉公人は30人余、女中は10数人いた。歌手の淡谷のり子は、悠蔵の姪に当たる。  淡谷家には、三ヵ条の「家憲」があった。@船乗りになるな。A他人の証人には立たないこと。B勝負事はやらないこと。
 商家の子に学問は無用だ。商人は読み書きソロバンができれば充分。学問や世の中のことを知る必要はない。知ったら商人が嫌になる。このような家庭環境の中で悠蔵は育った。
 悠蔵が10歳の時、長姉・な不夫婦の養子になる。な不は婿を迎えたが子どもがいなかった。「大五呉服店」から分家し、同じ市内の安方町87番地に呉服屋「大正呉服店」を開いた。
 明治43(1910)年の青森大火で、「大五呉服店」は全焼し、やがて没落する。養父母の店も裏の土蔵を残しただけで焼け出された。
 その日は、青森高等小学校(現・浦町小学校)修学旅行の出発日の予定だったが、大火のため延期された。行き先は函館で連絡船に乗らなければならない。「船乗りになるな」が、「船に乗るな」と拡大解釈され、連絡船に乗ることも禁じられた。悠蔵はその「家憲」を破り、修学旅行に参加した。彼の情っ張りに、養父の美八もついに折れたのだった。
 旅行先で担任の大和田四郎先生が、徳冨蘆花の「思出の記」を買ってくれた。この小説に感動し、蘆花を通してトルストイの作品に導かれていく。
 明治45(1912)年、青森高等小学校を卒業した悠蔵は、再建された商家の跡を継いだ。上級学校へ進学し、思う存分勉強したかった。しかし、それは叶わぬ夢であった。
 そのころの商店は、開店時間も閉店時間も定められていなかった。人通りが少なくなると閉店する。たとえ来客がいなくとも、店番をしながら新聞や雑誌を読むことは許されなかった。知識欲にあふれていた悠蔵には辛いことであった。
 店を閉めてから夜遅くまで読書にいそしんだ。「少年世界」「文章世界」をはじめ、「新潮」「中央公論」も読んだ。ニーチェの評伝に惹かれ、夜が更けるのも忘れた。
 「中学講義録」で基礎的な学科を勉強した。国語、英語、歴史、代数など、独学で学んだ。高等小学校時代の恩師・大和田四郎先生が、受講を申し込んでくれたのだった。


2.山に入る―「黎明」「座標」のころ  大正7(1918)年〜昭和7(1932)年

 大正7(1918)年4月、家の旧い因習と束縛に反抗し、東郡新城村(現・青森市)で農業を始めた。21歳の時で悠蔵はそれを「山に入る」と呼んでいる。トルストイの「大地に帰れ」の思想に惹かれ、農業への憧れがあった。
 一反歩(10アール)ほどの畑を借り、鍬をふりあげ、土を掘り起こした。たちまち手に肉刺(マメ)ができた。実際に農業を始めてみると、容易でないことを思い知らされた。ソバをまいたがすぐ実るわけはなく、結局、生活費は養父母から援助してもらわなければならなかった。
 この年の10月、武者小路実篤の「新しき村」の平等社会の思想に共鳴し、「新しき村」青森支部を結成。家の玄関に掲げていた「黎明草舎」の看板の横に、「新しき村」青森支部の看板も並べた。武者小路や志賀直哉らが発行していた「白樺」は、以前から購読し影響を受けていた。
 大正8(1919)年、看護婦の鳴海ナオと結婚し、新しい生活を始めた。昼は農作業に汗を流し、夜はランプの灯の下で読書した。トルストイ、ドストエフスキー、ゴーリキーなどを読んだ。原稿用紙にも向かった。この年、「山に住んで」が、「文章世界」に掲載された。
 同年7月、青森の「樹焔」五所川原の「独白」鰺ヶ沢の「素描」が合同し、短歌雑誌「黎明」を創刊、次第に文芸総合誌の性格をもつようになる。悠蔵は短歌のほか、「復讐」「情婦」などの短編を発表した。
 大正11(1922)年、武者小路を青森に招き講演会を開いた。
 講演会には会場一杯に聴衆が集まり、その夜、武者小路は悠蔵の家に泊まった。翌日、武者小路を囲む座談会を開いた。「黎明草舎」には、以後も徳永直、島木健作、林芙美子など多くの文人が来山した。
 「黎明」廃刊直後の昭和5(1930)年1月、「座標」が創刊された。「黎明」「オリオン」「三角塔」など、県内の文学同人誌が統合し、全県的な総合文芸誌の誕生であった。
 常任編集委員に、淡谷悠蔵、柿崎守忠、一戸玲太郎、川崎むつを、竹内俊吉が名をつらねた。特定のイデオロギーを標榜せず、同人たちは自由に作品を発表した。悠蔵は「解氷期」「農民文学雑考」などを書いている。
 その頃勃興していたプロレタリア文学運動をめぐって、内部での対立が激しくなった。特高警察の言論弾圧で発禁処分が続き、昭和7(1932)年8月、ついに廃刊に追い込まれた。
 「座標」はわずか2年8ヵ月の活動であったが、本県文化運動史に貴重な足跡を刻んだ。淡谷悠蔵は、その要として大きな役割を果たした。
 昭和3(1928)年には、全国農民組合県連合会委員長となり、農民運動を指導する。彼の農民運動は文学活動と一体のものとして結合されていた。


3.「野の記録」の時代〜終戦  昭和8(1933)年〜昭和20(1945)年

 日本は戦争の時代に突き進んでいた。社会大衆党は戦争協力の方向へ傾斜し、農民組合は社会大衆党を支持するかしないかをめぐって論争した。政党支持自由の立場をとっていた悠蔵は、そのために特高警察に監視された。
 昭和13(1938)年、悠蔵は木村武雄を団長とする、満州移住農民視察団に参加した。「地主には収奪されつづけ、反抗すれば警察の牢獄に打ち込まれ、貧困の中に死ぬよりはという日本農民の必死の飛躍か、必死の逃亡かが満州移住に踏み切らせているのではないのか。政府と軍部が懸命にそれを煽っているのではないのか」(『野の記録』第二部)
 その現状を自分の眼で確かめたいという思いに駆られ、満州(中国東北部)を視察した。
 昭和14(1939)年、中野正剛、木村武雄らと上海、南京を巡った。一ヶ月余の旅から戻った3月、青森駅で特高警察に逮捕される。治安維持法違反、詐欺、横領などの罪をでっちあげられたが、12月に無罪となった。秋までの8ヶ月は獄中生活であった。
 同年11月、石原莞爾の提唱で東亜連盟が結成された。中国との紛争を早期に解決し、東亜の和平を唱えたこの運動に、悠蔵は共感した。
 東亜連盟の理事長で代議士をしていた木村武雄に勧められ、翌年1月、上海に渡り、汪精衛の同志に会う。8月には木村の要請で中国の広東へ渡った。中国に東亜連盟を組織するためである。各地を講演して回り、組織化に努めた。
 上海に滞在中、淡谷のり子が公演に来ているのを新聞で知り、久しぶりに会った。のり子は悠蔵が青森の監房に収監されていた時、花束とバナナを持って面会に来てくれたのだった。だが、特高警察は面会を許さず、花束は見るだけ、バナナだけが獄窓に届けられた。
 広東での活動を終えた悠蔵は、三ヶ月ぶりに帰国し、郷里の土を踏んだ。そこに待っていたのは、思想犯保護観察処分であった。以後終戦まで、日々の行動が保護司と警察に監視された。
 昭和16(1941)年12月8日、東條内閣によって太平洋戦争が勃発した。日本は戦争一色に染まり、百姓たちは米や農作物を強制供出させられ、飢えに苦しんだ。この戦争は必ず負ける。悠蔵はそう予見していたが、口にすることは許されなかった。
 昭和20(1945)年8月15日、日本は敗戦した。ポツダム宣言をすぐ受諾していたら、青森空襲はもちろん、広島、長崎の悲惨な被爆もなかった。
 『野の記録』(全7巻、昭和51年2〜12月、北の街社)は、昭和の戦争時代を生き抜いた、淡谷悠蔵の自伝的大河小説である。


4.終戦〜政治の世界へ  昭和21(1946)年〜昭和44(1969)年

 昭和20(1945)年8月、敗戦によって廃墟となった青森で、悠蔵の戦後の新たな活動が始動した。マッカーサーがどういう占領政策を執っていくか。それが不安であった。これまでどおり社会進歩をめざして生きていくしかなかった。
 11月、東京で日本社会党が発足した。それに呼応し、大沢久明、西村菊次郎、米内山義一郎らが中心となり、日本社会党県連合会が旗揚げされた。翌昭和21(1946)年には、日本農民組合県連合会が結成され会長に就任する。
 その年の10月、黒石に疎開していた秋田雨雀が、「黎明草舎」に孫娘を連れてやって来た。劇作、新劇、児童文学など幅広い分野で活躍してきた雨雀との共同生活が始まった。
 雨雀を校長に政治学校が開設された。毎週土曜日の夜開かれる政治学校には、労働組合の活動家や若い人びとが集まり熱気にあふれた。秋田雨雀、淡谷悠蔵、大沢久明が講師となり、県内各地を回った。
 昭和22(1947)年から昭和26(1951)年まで、悠蔵は東亜連盟での活動を理由に占領軍によって公職追放された。しかし、歴史の転換期に立った悠蔵は、農民運動、社会主義の啓蒙活動を進める一方、文学活動にも精力的に取り組んだ。
 昭和25(1950)年6月、NHK青森放送局からの依頼で「津軽風流譚」を執筆し、青森放送劇団によってラジオ放送された。津軽の風俗をコミカルに書いたこの脚本は、好評で3年続いた。
 昭和26(1951)年7月から12月まで、3人の女性の生き方を時代の中に捉えた「薊」が、阿部合成のさし絵で東奥日報に連載。続いて9月から翌昭和27(1952)年8月まで、共同酪農の農民群像を描いた「酪農試錬」を「青森農業」に連載するなど、旺盛な執筆活動が展開される。
 昭和27(1952)年10月、日本社会党公認で衆議員議員選挙に立候補する。入院中の妻を見舞ういとまもなく、遊説に駆け巡った。初戦で敗れたものの、翌年4月、吉田首相の「バカヤロー解散」による総選挙で雪辱を晴らした。しかし、当選の喜びも束の間、妻が亡くなる。その年のメーデーには、妻の遺影とともに行進の先頭に立った。
 昭和32(1957)年9月から訪ソ国会議員親善使節団の一員として、3ヶ月にわたって訪欧。その見聞記は後年「世界の旅に拾う」(昭和48年5月〜昭和52年3月、「北の街」連載)に結実された。国会を舞台にした「舗道の花」(昭和29年3〜5月、「社会タイムス」連載)は、代議士になって初めて執筆した長編である。
 初当選以来、6期16年連続当選し、国政革新のため尽力した。昭和36年2月の予算委員会で「農民自体にも一体所得倍増はあり得るのか」と、池田首相に迫ったのは、長く語り継がれたエピソードの一つだ。党では本部の機関紙局長、県連合会長などを務めた。


5.再び「山」へ〜晩年   昭和45(1970)年〜平成7(1995)年

 昭和44(1969)年12月、衆議院選落選。これを機に72歳で政界を引退した悠蔵は、翌年再び新城の「黎明草舎」へ戻った。林檎園を処分し、新居でライフワークの「野の記録」「海鳴り」を書き継いだ。「野の記録」の第一部は昭和33(1958)年、武者小路実篤の序文を巻頭に、春陽堂書店から出版されていた。
 「北の街」に憶い出の人びとを綴った「袖振り合うも」(昭和45年7月〜昭和47年12月)「世界の旅に拾う」(昭和48年5月〜昭和52年3月)「花に思う」(昭和52年4月〜昭和56年3月)を連載。『なつかしの青森』(昭和49年3月)が東奥日報社から出版されるなど、精力的に執筆した。
 昭和46(1971)年、青森県文芸協会の理事となって、県文芸協会賞、県文芸新人賞選考委員として、本県の文学振興と新人育成に努めた。同協会の発行する月刊総合誌「あおもり」(現「文芸あおもり」)に、社会時評、「『黎明』・『座標』のころ」(昭和47年7月〜昭和48年8月)などを連載している。
 昭和50(1975)年11月、青森市に開館した棟方志功記念館の初代理事長としても活躍した。記念館建設の発端となったのは、棟方志功が文化勲章を受章した昭和45(1970)年、悠蔵と竹内俊吉知事がRABのテレビ番組に出演した時だった。
 対談中、東京在住の志功とも電話で会話を交わす場面があった。その時、竹内知事が「志功記念館」をつくりたいと話した。すると志功は飛び上がらんばかりに喜んだ。
 それがきっかけとなり、悠蔵は建設委員会を立ち上げ、記念館建設運動に奔走した。志功を東京に訪ね、展示する作品などについて打ち合わせた。記念館の玄関に掲げる「棟方志功記念館」の文字も書いてもらった。だが、無念にもオープンを2ヶ月後に控え、棟方志功は亡くなった。
 志功が裁判所の給仕をしていた少年時代、悠蔵は志功と出合っている。「ワだばゴッホになる」と、よく油絵を描いていた。ひまわりの絵を抱え、新城の山を訪ねてもいる。当時から悠蔵は、志功の天才的な画才を認めていた。
 昭和47(1972)年、これまでの文学活動が評価され、第14回青森県文化賞を受賞した。その5年後には、秋の叙勲で勲二等旭日重光章を受章。叙勲については衆議院議員時代に辞退して話題を呼んだが、今回は喜んで受章し、授賞式にも臨んだ。
 青森空襲を記録する会が、昭和55年(1980)年に結成された。顧問に就任し、平和運動にも力を注いだ。記録する会では、毎年、「次代への証言―青森空襲の記録」を刊行した。平和社会実現のために貢献した業績で、青森市から平和功労賞を受けている。
 平成7(1995)年8月8日、農民運動家、政治家、作家として、幅広い分野で顕著な業績を残し、98歳の生涯を終えた。北の街社から刊行された『淡谷悠蔵著作集』(全24巻)には、今日の時代に問いかける輝きがある。
 

(あべせいや 弘前民主文学代表)