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「生誕110年―淡谷悠蔵展」資料紹介 (2)草稿「野の記録」
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草稿「野の記録」表紙「起稿 昭和17年8月9日」 (青森市教育委員会蔵)
| 本文1ページ目「1948.9.17」の日付あり (青森市教育委員会蔵)
| 『野の記録』(昭和33年4月・春陽堂書店刊) 序文・武者小路実篤、装丁・向井潤吉
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『野の記録』は、淡谷悠蔵の代表作といえる自伝的長編小説である。
21歳の春に商人をやめて実家を離れ、トルストイや徳冨蘆花に憧れて新城で農業を始めた淡谷は、やがて貧困に苦しむ農民の実態を知り、農民運動に飛び込んでいく。
昭和6年から続く東北の大凶作の中、借金や生活苦に追いつめられた農民達の生活改善のために淡谷は奔走した。身売り娘救済のため上京して実情を訴え、凶作救済米の代金延納を求め、むしろ旗を立てて県庁へデモを行った。やがて日本が戦争への道を突き進む中、淡谷もいやおう無しにその渦の中に巻き込まれてゆく。『野の記録』には、そんな淡谷の生の軌跡が克明に描かれている。
「今から考えると、想像もつかない、みじめな人間生活の記録ではあるが、真実、いつわらぬ私の記録である。」と淡谷は記す。(『野の記録』「あとがき」)
「野の記録 起稿 昭和十七年八月九日」と表紙に記した、200字詰原稿用紙101枚の草稿が残されている。
文章構成や語句はかなり決定稿と異なっているが、この草稿からは『野の記録』の創作過程についていくつもの興味深い事実がわかる。冒頭の一行「その日、日本は大なる陣痛の中にあった」と、序の章「飢渇(けかつ)鳥」の構想は、この草稿の段階から決定稿まで踏襲されたものであること。決定稿が「私」の目から一人称で語られているのに対し、草稿では「津島大蔵」という架空の人物が登場し、三人称で物語が進むこと。続く第二章の部分は大幅に書き直され、採用されていないこと。
草稿の日付から、淡谷は「野の記録」を昭和17年に書き始め、その後23年9月から本格的に書き進めたことがわかる。23年9月8日の日記には「2、3日前から、野の記録執筆。今度は仕上げて見せるつもり。」とある。この時期、淡谷は戦時中に関わった東亜連盟の活動を理由に公職追放を受けていた。戦後の混乱の時代、発表するあてもないまま淡谷は執筆を続け、やがて、三人称ではない、まぎれもない「私」の記録として完成させる。33年4月、春陽堂書店から『野の記録』刊行。淡谷は既に国会議員として活躍していた。
「原稿の準備で古い日記を読みかえしているが、胸をしめつけられるような思い出がよみがえって来る。夏の夜の花火のように消え去って行く人間の生涯が文字として残るということに新らしい意義を感じる。苦しくても真実の記録は、残しておくべきものと思いもする。」(37年7月9日・妻トミ宛書簡)
国政から離れた後も淡谷は書き続け、当初の構想をはるかに超えた『野の記録』全7巻として、51年に完結させた。昭和6年から終戦へ、日本が生まれ変わるまでの「陣痛」に苦しんだ時代。淡谷にとって、どうしても書かねばならない時代の記録であった。
(主幹・佐々木朋子)
(平成19年11月5日付・「東奥日報」掲載)
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