【青森県近代文学の名品】

Vol.64 菊岡久利 短冊「師横光利一 嗚呼薨去す 光、影、柩車ゆく 久利」

 この短冊に描かれた情景は、菊岡久利(1909〜70)が師と仰いだ横光利一(1898〜1947)の葬儀の日である。「何より忘じ難いのは、昭和二十三年一月三日、横光利一亡骸出棺に当って、菊岡君が真先にその先棒を肩にしたことであった。美しい師弟であった。」(「美的」第14号所収 昭和57年4月)と石塚友二は記している。菊岡自身は「僕は横光さんとは、二十年も知り、人物に惚れて菊岡久利という名前をもらって押しかけ弟子になってからでもすでに十三年も過ぎた。」(「横光さんの死」 「女性改造」昭和23年2月号所収)と振り返る。菊岡は横光利一の助言を文字通り受け入れ忠実にやってきた。「横光さんは、小説を書きたい私に、まづ詩を書き、芝居をかき、それから小説を書けと云はれた。私はその通りに実行しようと努力して来た。」(「わが文学的交遊録」 「現代文学」昭和17年11月号所収)昭和11年の第1詩集『貧時交』を皮切りに、昭和13年『時の玩具』、昭和15年『見える天使』と続けて詩集を出版した後、同年に戯曲集『野鴨は野鴨』を上梓した。残念ながら肝心の小説集『恐るべき子供たち』の出版は昭和24年のことで師に読んでもらうことは適わなかった。

 師に対する思いは徹底している。たとえば次のようなことはなかなか言えるものではない。「自分がこんなに愛してゐるのに、師横光利一は、果して自分を砂礫ほどにも愛してくれたであろうかと、いつも疑問に思ったものだ。・・・しかし僕は師横光利一を内攻して愛した。僕が百萬も愛して、師横光利一が十も百も愛してくれたらそれでよいといふほどまでになってゐた。」(「横光さん」 「文學界」昭和23年4月号所収)まるでやるせない片思いではないか。だからこの短冊で使われている「薨去(こうきょ)」という言葉も理解できるのである。死去でも逝去でもない。貴人の死を意味するこの熟語こそ師にふさわしいものだった。師の早すぎる死については「師横光利一の悲劇は、単純に申して、彼の文學の勝利の時季が、日本の、戦争の敗北の時季であったことだ。それが彼の薨去といふものだ。」(同前)と述べているが、この短冊の短いセンテンスには菊岡久利の師横光利一に対する万感の思いが凝縮されている。

(館長・黒岩恭介)

(平成20年07月24日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)

名品コーナーへ  文学館TOPへ