| Vol.66 石坂洋次郎 色紙「夜深水寒魚不食 満船空載月明帰」
当館では石坂洋次郎(1900〜86、弘前市出身)揮毫(きごう)の色紙、「夜深水寒魚不食 満船空載月明帰」を所蔵している。古書店を経て入手した資料であり、書かれた経緯については残念ながら定かでない。ただし、洋次郎は1956年7月、碇ヶ関村(現平川市)三笠山での葛西善蔵文学碑除幕式に参列した折にも同じ文句の色紙を書き残している。この色紙(弘前市立郷土文学館蔵)と同様、当館所蔵の色紙もまた善蔵の代表作「湖畔手記」にちなんで書かれたものと推定される。
二人の初対面は1923年7月で、善蔵の寄宿先である鎌倉建長寺内の宝珠院を訪ねた洋次郎は当時、慶応大学の学生であった。この訪問を契機として洋次郎は善蔵に師事することを決意するが、その2ヶ月後、関東大震災により宝珠院は倒壊。善蔵は本郷の下宿へと移るが、翌24年秋には都会の喧噪から逃れ日光湯元温泉に逗留(とうりゅう)。以下に記すのは同地で書かれた「湖畔手記」の概容である。
湖畔の宿に滞在した「自分」(善蔵自身がモデル)は郷里の妻に宛てて手記を書こうとするが、執筆は思うように進まない。ある夜、宿の女中たちに誘われて湖水に乗り出し、船上で口ずさんだ文句が「夜静カニ水寒フシテ魚喰ハズ、満船空(むな)シク月明ヲ載セテ帰ル」である。「何の意味?」という女中の問いに「自分」は明言を避け、真意は語られないまま小説は進行する。滞在当初「自分」の詩情を呼び覚ましてくれた山や湖は、いつの間にか暗鬱(あんうつ)と苦悩を吹き込む存在に変わってしまう。終盤、若い頃からの文学仲間であり飲み相棒でもあったKの死を知らせる電報が届く。結果としてKの絶筆となった短編が、婦人雑誌の創作欄ではなく趣味欄に入れられてあったことを「自分」は思い出す。夜の暗い湖面を背にして橋に立ち、自らも幸福ではないことを思いながら、Kの霊に祈りを捧げるところで作品は幕切れとなる。
ちなみに湖上で「自分」が口にした文句は禅語であり、北宋から南宋にかけて刊行された禅宗の史書を要約した書物、『五燈会元(ごとうえげん)』に見ることができる。唐代の僧、徳誠(とくじょう)(通称は船子(せんす))は師の下を離れるに際して友人の僧に、もし自分と性分の合いそうな人材に出会ったら差し向けてほしい、その人物を鍛え上げ先師の恩に報いたいと伝えた。そして自らは秀州(しゅうしゅう)に至り、川の渡し守をしながら弟子となる人物の訪れを待った。しかし月日が過ぎても待ち人は現れず、徳誠は自らの境涯への思いを込め七言八句の韻文を綴(つづ)る。「夜静水寒魚不喰/満船空載月明帰」は結末の二句であるが、徳誠の来歴から察するに、労力を注(そそ)ぐが報われない状況を詠んだものと考えられる。「湖畔手記」という作品の主題に密接に関わる字句であると言って良いだろう。そういった深みのある字句が記された色紙、石坂洋次郎が葛西善蔵の文学の理解者であったことを如実に示す資料である。
 洋次郎は2字目を「深」と揮毫したが 『五燈会元』および「湖畔手記」では 「静」である。
(主事・竹浪直人) (平成20年7月10日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載、ただし第1段落に加筆訂正を施した)
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