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【青森県近代文学の名品】

Vol.62  東海散士 『佳人之奇遇』 全16巻 

  柴四朗(1853年生まれ、少年時代の名は茂四郎)は会津藩士柴佐多蔵の四男、父が海防の任に当たっていた折、上総(かずさ)国(現千葉県)富津(ふっつ)の地で誕生した。少年期には会津に戻り、藩校・日新館で学んでいる。62年、藩主松平容保(かたもり)の京都守護職就任に伴い父が上洛、のち四朗も京都に登り鳥羽伏見の役では出陣を経験した。68年には会津で戊辰戦争を迎え、数えで17歳だった四朗は白虎(びゃっこ)隊に編入されるが、熱病を患い鶴ヶ城内に留まる。自邸に残った祖母・母・姉妹は自害を遂げ、半年に及んだ戦いは会津藩の降伏という形で終息した。四朗は他の藩士と共に東京で拘禁を受けるが、会津藩は69年秋、旧南部藩領の一部を授かり、斗南(となみ)藩の名を得ることとなる。父と兄弟は下北半島に移住するが四朗は東京に滞在、以後数年にわたり勉学の方途(ほうと)を求めて放浪する生活が続く。72年には旧藩士・廣澤安任(やすとう)が経営する谷地頭(やちがしら)(現三沢市)の洋式牧場で通訳を務め、その後東奥義塾に籍を置くなど青森県内にも足跡を残している。一時、下北の父の許(もと)で開墾に当たったと伝える文献もあるが、実弟・柴五郎の回想をまとめた『ある明治人の記録』(石光真人(いしみつ・まひと)編著、中公新書、1971年)には該当する記述は見られず詳(つまび)らかでない。

  1877年の西南戦争では臨時将校として出征し諸新聞に戦況報告を発表、陸軍将校・谷干城(たてき)の知遇を得たのはこの頃である。79年からアメリカに留学、帰国した85年の秋に東海散士の筆名で『佳人之奇遇』初編(巻1〜巻2)を発表した。著者と同名の主人公・東海散士が亡命の身である二人の西洋婦人と巡り会い、異郷の地で活躍を繰り広げるという物語である。86年2月、谷干城農商務大臣の下で秘書官となり、翌年6月まで欧州視察に随行。帰国後、谷は井上馨(かおる)外相の条約改正案に反対し大臣を辞任、四朗も辞職し著作に専念する身となる。87年から翌年にかけて刊行された『佳人之奇遇』4編(巻7〜巻8)には、欧州視察における見聞も盛り込まれた。88年秋には「大阪毎日新聞」主筆、翌年には陸羯南が創刊した新聞「日本」の社友となり、新聞記者としても活躍。91年冬『佳人之奇遇』巻10を刊行し、明けて92年には衆議院議員総選挙で当選を果たした。政治活動の傍ら創作は続けられ、97年には『佳人之奇遇』巻11から巻16までが世に送り出された。その後も四朗は衆院選で当選を重ねたが、1915年の外務参政官の職を最後に悠々自適の生活に入り、22年に熱海(あたみ)の山荘で生涯を終えている。

  当館では『佳人之奇遇』全16巻を所蔵している。文学史的には「政治小説」と位置づけられる作品であるが、亡国の悲哀、スペイン女性幽蘭(ユーラン)との儚(はかな)い恋など、読者の情緒に強く訴えかける面があることも否(いな)めない。明治の青年たちに広く愛読された小説である。

(主事・竹浪直人)

(平成20年6月12日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)