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青森県近代文学館
陸羯南と新聞「日本」
小山 文雄
明治二二年二月一一日、大日本帝国憲法が発布され、日本が近代国家への道を大きく進めたその日、陸羯南の新聞「日本」も創刊された。日本列島の地図の素書きに重ねて題号「日本」の二字が厳として納まり、羯南の手になる社説がそれに続く。創刊号のそれは、まず「日本」と題して発行の趣旨が述べられ、外部に向う「国民精神」の発揚、内部に向う「国民団結」の鞏固を願うと共に、皇室と平民との近接、貴と賎、貧と富、都と地方の甚だしい隔たりを取り除き、また教育の改良を図り、善悪邪正をはっきりさせて「社会の公徳」を啓発するなどの具体目標を掲げ、「信義」を旨とし「『日本国民』として其天賦の任務を竭さしめん」と堂々の決意を示した。
ついで「日本と云ふ表題」「日本国民の特性」を論じて「世界の君子国」となろうと呼びかけた。そして、「国民」について、それは自ら君民の合同を意味するもので、「今日の国家は『国民』と云へる一大観念の上に安置せらるゝもの」であるから、「国民」に依らなければ「一国の一国たる元気」を発揮することはできないことを力説した。
こうして四ページ建て、一部一銭五厘、月極め三十銭の新聞「日本」は近代国家の軸としての「国民」の創出に突き進むこととなった。そして羯南は、以来二七年余社説を書き続けて三九年六月二九日に至り、第六〇八六号を以て筆を措き、社を去ったのである。
この間、権力の「凶器」とされた新聞紙条例によって発行停止を受けること回数で三〇回、延べ日数で二三〇日に及ぶが、これは、羯南がいかに節操の人であったか、また「日本」がいかに「社会の木鐸」としての実を果たしたかを物語るものと言えよう。
羯南の社説の特色に、同じテーマで連載するというスタイルがあり、創刊の年だけでも二日続き七回、三日続き八回、四日続き四回、九日続き十日続き各一回、「内治干渉論」に至っては補遺を合わせて十八日間の連載となっている。当代有数の政論家としての面目躍如の感がある。
一方、正岡子規に発表の場を提供しつづけたことも特筆されなければならない。子規が根岸の羯南宅の隣に引越したのは明治二五年二月末だが、それから三ヵ月ほどたって木曽旅行記が六回連載された。それが子規の「日本」への初登場で、以来、三五年九月の絶筆「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」ほか二首の掲載まで、「日本」は子規の主舞台のひとつとなった。文苑に俳句欄を設けて主宰し、俳壇に「日本派」の名を高め、一方「墨汁一滴」「病牀六尺」などの随筆を長期連載して多くの読者を引きつけもした。それでいながら、ある日草した自身への墓碑銘に、自分の働きとして記したのは、ただ「日本新聞社員タリ」の一節のみであった。ここには子規の満足と羯南賛仰への思いが凝縮されている。こうして子規と「日本」は二にして一、文学史上における「日本」の貢献の大なるを知ろう。
(神奈川文学振興会評議員)
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